なぜ味覚が美学領域においてほとんど無視されてきたか?
味覚が無視される、いくつかの原因
「鑑賞に耐えうるほど刺激が長続きしない」(絵の、ある部分に注目して説明できるほど長続きしない)
「複雑さや構造を持たない」(例:音楽の構成、小説の筋、絵画の構図など)
「抽象性をもたない」(例:自由、時間、勝利などを表現できない)
「外部の対象を表象しない」(例:肖像画、風景画などは外部の対象を表象)
西洋哲学の歴史を通して,視聴覚は特権的な地位を占め,他の三つの感覚に対して優位性を今なお保っている(Howes 1991)[1].
コースマイヤは,味覚が低位に位置づけられた根本となる背景として,哲学上の上位項(精神,理性,抽象性)と下位項(身体,感情,個別性)の二項対立を指摘し,味覚が下位項に同一視されて来たことを指摘する.
視聴覚が「高級」感覚とされる理由は,世界についての情報を集める能力が高いというものである.
認識にとっての主要な感覚とされ,「知的」感覚とも呼ばれる.
一方,触覚,味覚,嗅覚は,「低級」とされる[2].
とくに味覚,嗅覚は生命保護という基本機能以上の高度な知の展開には必要とされていないように思われ,「動物的」「身体的」感覚とされてきた.
この五感の序列をさらに強化するのは,対象との「距離」である.
視聴覚のもつ対象との物理的距離は,知覚における物理的接触を回避することを意味し,それが非肉体的で,天上的で,抽象的な,汚れのない感覚であるとの印象を生む.
このことから視聴覚は知的感覚として精神と関連付けられ,触覚,味覚,嗅覚は身体と肉体的刺激の領域に置き去りにされる.
精神を身体よりも優位に置いてきた権威ある伝統は,五感の位置づけにも影響を与えている[3].
食べ物と性の連関は,味覚が純粋に美的な経験として考えられていない理由の一つである.
味覚は耽溺へといざなう官能的な身体的快をもたらすので,倫理性が疑わしく,知的で洗練された認識経験のうちには入れられず,動物的な快楽と深く結び付けられ,無視され,避けられてきた.
以上のような背景から,味覚は美学においてその重要性を顧みられることはなく現在に至っている.
反論
Madalina Diaconu[6]
儚さの否定的な意味合いは西洋文化に特有の価値観であり、一般化することはできない
[1] 絶版になっているので,入手困難なときには,まずはHowsのwebページで要約を参照されたい.https://www.david-howes.com/senses/Consert-Variety.htm
[2] ただしコースマイヤは,触覚が視覚を確かめる存在であること,触覚の対象が統語的に配列され,意味を割り振ることができ,点字法などが可能となることから,味覚,嗅覚に比べて視聴覚寄りに置く.
[3] (Korsmeyerほか 2009, p151)