人工知能学会全国大会2024 の原稿のWEBアーカイブです。
人間の味わうという行為と、機械(センサー)による味質計測の違いを、現象としての味わいの時間論の側面から比較した論文です。
元になっているのはContemporary Aesthetics誌に投稿した論文です。
AI学会での発表向けに時間理論をコンパクトにまとめて、機械との比較を行っています。
PDFのほうが読みやすいと思います。
1. はじめに
味や香りに関する美学書の多くは、歴史的に味覚と嗅覚がいかに低位に措かれてきたかを半ば自虐的に解説することに序章の多くを奪われる。
哲学では眼(と耳)だけが確かな情報をもたらす器官であり、対象との距離が(身体から離れた)精神世界に近いものとみなされ尊ばれてきた。カント以来の視聴覚を高級感覚と見做す妄想は、現代に至って低級感覚をそもそも議論しないという風潮を生んだ。
パッラスマーは、このような視覚の「家父長ぶり」を建築における触覚を題材に喝破する。遠近法に象徴されるように「眼は知覚世界の、さらに自己の概念の中心点とな(り)…知覚を表現するだけでなくそれを決定づけるものとなった」とし、視覚の特権からの解放を主張する([1]p.65)。
認知の科学でも、視覚はその中心議題となることで、眼を明らかにするための分析手法を独占的に確立してきたのではないか。いま防ぎたいのは、この眼のための分析手法が他の感覚にも適用できるだろうという安直な考え、いわば分析手法の敷衍による「二次支配」である。私の研究のねらいは、味の認知(あるいはセンシング)を味に即した手法で明らかにするために、科学を先導する味と香りの思想、哲学を推し進めるというものである。
味の認知をわかろうとするとき、その思想に求められるのは岡潔のいう「知的なわかる」ではなく、情的な、あるいは意(こころ)のレベルでのわかるだと思う。言いかえれば、主観的にわかる有り様を記述するということである。客観的な味などというものは土台存在しない。ここでは諏訪[2]のいうからだメタ認知的な、モノ世界とコト世界の記述の両面が求められる。
岡潔は、「すみれの花を見るとき、あれはすみれの花だと見るのは理性的、知的な見方です。むらさき色だと見るのは、理性の世界での感覚的な見方です。…これらに対して、すみれの花はいいなあと見るのが情緒です。([3]p.208)」とする。
同様のことを作家の北方謙三も言っていた。「小説の言葉」とはなにかという話の中で、バラを美しい赤、きれいな赤ではなく「いい赤」と書く。この主観的な表現に、逆説的に普遍を押し込めるのが作家の仕事なのだという[4]。
ワインのラベルに並ぶのは、Aの香りだ、Bの香りだという、「知」的な言葉である。一方で私が扱いたいのは、主観的な現象としての賞味経験(食べ物の美的質を鑑賞する経験)である。
味わうという知的な営みを、眼の科学の手法のおし着せではなく、舌と鼻の経験に即して研究したい。その一端を、本稿では機械のセンシングと人間の賞味の比較から議論する。味覚センサの数値をもって「味」とする研究は、明らかに何かを見逃している。だがそれは分析の手法やセンサの精度の未熟さが問題なのではない。足りないのは、味の認知研究を先導する思想と哲学である。知のレベルで測れば分かるのか、何を測ればよいのか、さらに我々の賞味経験、鼻腔と口腔で起きている情の、意のレベルの現象と関係はどのように特徴づけられるのかを語る思想が求められる。
本稿では、食べる経験を構成する主観的な「時間」に着目し、次節では人間の食べるの時間性を概説し、次に味覚センサの時間と比較を試みる。最後に、私があるデセールを食べた時の記述をもとに、機械にはわからないだろう、いちごの意味を検討したい。
食べるの時間性
この数年、味と香りの経験における時間性temporalityがどのようなものかを考えてきた。
食べるの時間は、単に口の中に入ってから飲み込むまでの数秒間だけにとどまるものではない。対象としてのワインが持つ時間から味わう人の現象の時間まで、多面的multi-facetedかつ多相的multi aspectsな時間が、一口ごと、一杯ごとに姿を変えながら動的に生起する。
これまでの研究で私は、食べることに関する時間の相を「対象の時間」「認知の時間」、「現象の時間」という3つに分類した。
さらに現象の時間は、線形時間linear temporality、円環時間circular temporality、点時間point temporality、無時間attemporal/non-temporalの4つの相を持つことを示した。
詳細は論文[5]に譲るが、ここではセンサの時間と人間の食べる時間の対比のために、賞味経験の時間性の議論を簡単に紹介する。
対象のもつ時間
酒を飲むときには目の前に酒があるが、その酒が内包する時間が「対象の時間」である。すなわちワインのヴィンテージ(数年間)、日本酒が瓶詰めされてからテーブルに載るまでの時間(数日~数ヶ月)、開栓されてからグラスに注がれるまでの時間(デカンタージュ、数分~数十分)、グラスに注がれてから口に入るまでの時間(数分)などである。これらの時間的側面のどの一つをとっても、十分に賞味の契機となりうる。日本酒は一般に冬に醸造されるが、春や夏は爽やかな香りが楽しめ、夏を越えると同じ酒でも「秋あがり」と呼ばれる、旨味を楽しむ酒質に変化する。
認知の時間
食べることや味わうことは決して受動的で自動的なプロセスではない。ギブソンは、「それ(味わう活動)は探求的で刺激を生み出すものでもある(…)味わうことは一種の注意であり、口はその内容に焦点を合わせると言える」([6]138-139)と主張している。
ヒトの味覚嗅覚は呼吸器系に位置しているため、オルソネーザル(鼻の穴を経由して嗅上皮に至る空気の経路)、レトロネーザル(喉の奥から鼻に抜ける経路)の2つの空気経路を持ち、ある対象について経時的に異なる2つの風味、いわゆる「たち香」とアフターフレーバーを感じることができる。また食べ物は口の中での経時変化として、滞留による温度変化と揮発、咀嚼による形状変化、唾液による溶解、舌による撹拌といった、様々な科学的・物理的変化を受ける。ウイスキーなどは、口の中で転がしながら咀嚼する(ケンタッキー・チュー・テクニック)ことで、滞留によるアルコールの揮発を味わうことができる。数時間から数日というスパンでは、食物嫌悪/嗜好学習といった認知的な要因も、その後の摂食と嗜好性に影響を与える。
あるいは口に入る前から、パッケージの見た目や音といったマルチモーダルな情報がその後の味の認知に影響するというのは近年の味の認知科学の大きなトピックである。これらは食感や口の中での風味の拡がりなどに寄与し、次節以降で検討する通り料理デザインの重要な契機である。
現象の時間
対象の時間と認知の時間は、客観的で測定可能な物理的時間性である。
一方、現象の時間は主観的な時間であり、必ずしも物理的ではなく、形而上学的な時間性である。
現象の時間とは、食経験を説明する心理的で主観的な時間である。
主観的な時間は、実際の(客観的な)時間とは異なり、反復したり、凝縮したり、一時停止したり、ぽっかりと抜け落ちたりしながら展開する。
これらの時間的側面は物理的に測定することは難しいが、賞味経験を特徴づける上で重要な意味を持つ。
斎藤百合子[7]は、日常生活における美的経験を批評的言説の対象とし、相互主観性を確保するために、現象学的記述の重要性を以下のように強調している。
「明確に定義された対象や客観性の可能性を要求する判断的言説は、私たちの美的存在全体を包含するには不十分である。現象学的記述は、美的領域が私たちの生活体験に内在する複雑で多様な美的側面に忠実であり続けるために、同様に不可欠なのである。(筆者訳)」
この項では、食の鑑賞の4つの時間的側面を紹介する。
これらの時間的側面は、網羅的でなく、相互に排他的なものでもないと思う。
なお、食べものの時間性は食べ物がもつのではなく、食べる人の姿勢と態度に依存する。
無時間 attemporal/non-temporal
時間性の基本は変化にある。経時変化がない(すなわち、口に入れた瞬間から飲み込むまで変化がない)食品は、非時間的attemporal(または無時間的)食品とみなすことができる。味や風味に変化のない食べ物は、少なくとも時間性の観点からは、美的な鑑賞の対象とはみなされないのが普通である。しかし、原理的には、食べ物が時間とともに変化しないことはありえない。口腔内では、咀嚼反射の一環として唾液が分泌され、嗅覚は刺激に慣れる。つまり、食べ物の無時間性は、食べる人の態度や注意力に左右される。従って食品の無時間性は、時間的特性のない食品を経験するというよりも、時間性に注意を払わない状態と表現する方が適切である。
例えば主食ではない穀物の味は、無時間性として知覚されることがある。ジャガイモや小麦を主食とする人は、米の味を無時間性と感じるかもしれないし、その逆も然りである。しかし、適切な注意を払えば、咀嚼時の食感や後味の甘さなど、米の品種による違いが、この食品に対する十分な評価要素となる。
線形の時間
通常我々が時間を考えるときには、過去から未来に流れる時間、すなわち「矢」のような一方向の時間である。ワインの表現も基本的にはこの時間に従って語られる。以下のような表現はごく一般的なコメントである。「ブラックベリー、新鮮な土のフレーバーが特徴的で、リッチでバランスのとれた味わい。中盤はしっかりとしたタンニンが存在感を増し、ドライなエッジを与えている。フィニッシュは、核となる果実味を強調する。」
この例では「中盤midpalate」「フィニッシュ」といった言葉で時間が語られている。ワインの評価的コメントの基本構造は、最初に感じる香り(アタック)から中盤の印象、最後の香り(余韻やアフターフレーバー)までの香りを、時系列で語るものである。
しかし、こうした線形の時間によるコメントは、味の鑑賞としては片手落ちと言わざるを得ない。野球の打線において9番打者が「ラストバッター」ではなく「1番打者の前の打者」として考えられるべきであるのと同じく、「アフターフレーバー」が次の杯の「トップノート」に先駆ける香りであることを忘れてはならない。味わいの記述を、酒が口の中に入ってから飲み込むまでに限定することは、行き過ぎた単純化であり、経験の矮小化である。
円環時間 circular temporality
円環時間とは、時間を直線的、単一的ではなく、循環的、反復的なものとして捉える視点である。繰り返される時間、反復する時間、循環する時間と言い換えることもできる。円環時間は特別なものではない。日没と日の出、四季や雨季・乾季、天体の循環は日常生活のリズムと調和しており、農暦(太陰暦)は世界中に見られる。現代では、時間はしばしば、年、月、日、時間、分、秒、そしてさらに細分化された単位に分けられる。このように直線的で不可逆的な時間が、私たちの時間認識を支配しているように見える。しかし、前近代の農耕社会では、反復的な時間の方が、人々の生活感や存在感と調和していたはずだ。バーバラ・トヴェルスキーは線形の時間を絶対視する考えを「線形バイアス」として批判し、視点を線から循環するものへと変えると,新しい発見が可能になることを主張する。
循環する時間における食事体験とはどのようなものだろうか。マクロな「食事」のレベルで直線的な時間と対比させると、フレンチやイタリアンのコースでは、料理が決められた順番で次々と出てくる。オードブルからデザートまでの時間の流れは不可逆的であり、おかわりや繰り返しは許されない。これは直線的な時間性である。
一方、循環的な時間は、例えば南インドの「サディア」に見られる。大きなバナナの葉に盛られたご飯、パパド、さまざまな食材で構成された、インドのカレーをイメージされたい。このスタイルでは、料理を食べる順番や順序はあらかじめ決められていない。食べる人の手はバナナの葉の上を行ったり来たりし、おかずはランダムに口に放り込まれる。おかずAはおかずBの前に置かれることもあれば、おかずBの後に置かれることもある。前にあったものが繰り返し現れ、後に(未来に)来るものは前に来たものである。現在と過去は再帰的に繰り返され、同じ地点を何度も通過する。サディアには、再生、反復、再帰する循環的な時間性が見られる。
食品における循環的な時間性の例は枚挙にいとまがない。他にも五目煮、ピザなどがその例である。五目煮は箸で食べるため、具材のひとつかふたつをランダムな順番で繰り返し経験し、異なる味や食感の食材が次々と口の中に現れることで、反復的な時間性が生じる。ピザはどうだろうか? シカゴ・スタイルのピザは、どこをとっても同じ味がするため、無時間性または点時間性を示す。一方、例えばナポリ風のマルゲリータは、ピースの中心(三角形の頂点)から食べると、チーズ、トマト、バジルがランダムに繰り返し体験され、一口ごとに印象が異なるという円環的時間性が体験できる。
円形の時間性は、あらゆる料理系に浸透していると思われ、むしろ直線や点の時間性のほうが、意図的にデザインされた、あまり一般的でない料理であろう。これは、先に述べたように、私たちの食習慣が重層的な循環構造の中に組み込まれているからである。
点時間 point temporality
点時間の重要な特徴は、すべての構成要素が口腔内で同時に展開することである。そのため、点的時間性食品は一口大にカットされ、具材を包んだり巻いたりして登場することが多い。(う巻き、たこ焼き、餃子、生春巻きなど)。点時間は、静的な時間ではなく、凝縮された時間とみなすべきである。非/無時間では時間的な移り変わりが感じられないのに対し、点時間では、料理の世界全体が口腔内に展開するという凝縮した時間的充足が得られる。
センサの時間と人間の時間
味覚センサの基本原理は呈味成分としての化学物質の分析である。糖度計や塩分計などはその最も基礎的なものである。ただし食べ物の化学物質の組成を詳細に分析しても、人間の感じる味を表現することはできない。
人間の味覚の特徴として、異なる化学物質(スクロースとアスパルテーム)であっても、人間には同じ味(甘さ)という刺激として認知されることや、ある味が他の味の感じる強度に作用する、抑制/相乗効果などが挙げられる。
このような人間の認知の特性を反映し、味物質の検出ではなく「人間の感じている味」を出力とするためのセンサは人工舌と呼ばれる。この実現例は少なく、代表的なものとして都甲らによるSA402B や TS-5000Z(通称、味センサ)、国外ではAstree II e-tongue(electric tongue)がある[8]。
これらの人工舌は成分分析に人間の味の認知システムを情報処理として反映した「インテリジェントセンサー」であるが、時間的性質の検出はごく一部に限定されている。SA402B and TS-5000Zでは、舌の上に乗ったときに感じる味(先味)と、嚥下後に残る味(後味)を分析可能である。これらは味センサである脂質膜からの呈味成分の剥がれやすさなどをもとに計算されていて、後味のコクなどが検出できる。ただし現状センサの味センサも、例えば同じ味に飽きてきたりといった経時的な認知の変化については計測していない。また具材間の対比(例えばクリームのあとのいちごなど)などの効果も、別個に計測したものを人間が解釈する必要がある。
時間性を生み出す2つの制約
記憶
第一の制約は、記憶である。記憶は一般的に感覚記憶、短期記憶、長期記憶に大別される。感覚記憶の保持期間は感覚モダリティによって異なるが,1秒から数秒程度と短い。一方,保持容量は短期記憶よりも大きい。人間の感覚は、刺激を再現できない。痛みや味を思い出すことはできるが、それは痛みや味「そのもの」の再現ではない。もし痛みそのものを再現できれば、大怪我を説明するたび、再び激痛に襲われることになる。
一方で、機械は数値として再現できる。10年前に計測した数値を、もう一度センサへの入力情報とすることができる。10年前に開栓したワインと、今開栓したワインを「同時に」テイスティングすることができる。人間も両者を比較しているように思えるが、一方は眼の前のワインのセンサデータだが、もう一方は10年前のワインの、編集され、ある部分が消却/強化された長期記憶である。すなわち、機械のもつ時間は基本的に点時間である。現在と過去がいま、ここに同時に現れる。時間経過や順序が無いため、線形時間ではない。また、過去の同一の刺激を再現しているため、円環時間とも異なる。円環時間は、異なる経験のなかに反復性を見出すことである。例えば春は反復するが、春の経験内容は毎年同一ではない。全く同一の刺激の再現は、円環時間の概念とは異なる。したがって現在と過去が凝縮した時間として、今ここに同時に現れるのは、点時間である(道元・井筒のいう同時炳現)。
このように時間とともに編集され、忘却され、強化されるという人間の記憶の制約的特性が、線形の時間や円環時間を生む。パフェを食べるとき、最初のイチゴと次のクリームの味は別個に経験されるわけではなく、線形の連続性をもち、あるいはイチゴの反復として円形の時間構造をもつ。口腔内の同じ味が続けば飽きるし、生クリームの甘い風味の次に酸味の強いジャムが出されればそこに対比が生まれる。イチゴとクリームの反復のなかでイチゴは、現れる度に異なる役割をもって提示される。ここに、要素の総和以上の美的経験が創発する。
口腔の容量
第二の制約は、鼻腔と口腔の物理的な構造である。口腔の容積は胃よりも小さく、ヒトは食事の際に食べ物を分割し、一度の食事量の全体を数回から数十回に分けて胃に送り込む。食事の全量を丸呑みする食べ方の場合には時間性がない。食べ物の分割こそが順序や反復といった時間性の基本単位となる。
食べ物を味覚センサで分析する際には、ミキサーで液状にし、呈味成分の構成を分析する。ここでも、ナイフでの分割や反復的な咀嚼などといった時間性は捨象され、点時間あるいは時間経過を無視した無時間として分析される。
ミルフィーユの時間
最近、パフェとアシェット・デセール(平皿デザート)に注目している。アシェット・デセールは、平らな皿にケーキやアイスクリーム、ソースなどいくつかのデザートを配置して提供される。
もし機械で、全く同じ素材を用いたいちごのパフェと、いちごのデセールを分析すれば、両者は「同じ」味ということになるだろう。しかし人間にとってはこれらは異なる経験である。時間性の理論は、この違いの説明を可能にする。
パフェは基本的に上部からグラス底部への線形の時間をもつ。基本的に不可逆な時間経過のなかで、味や食感の変化を楽しむ。一方、デセールの時間性は、円環時間である。どこから手をつけてもいいし、クリーム、ケーキ、フルーツが何度も反復する。(もちろん、パフェの中盤のいちごや最後のいちごソースを主題の反復と捉えることもできる。時間性は料理の種類ではなく、食べ手の注意と態度に依存する。)
庭で喩えると、パフェは入り口と出口のある、順路の定まった回遊式の庭園[9]であり、デセールはどこからでも中に入ることができて、どういう順番で遊具を使っても良いような公園といえるかもしれない。ちなみに回遊式の庭園は、各地点の景観もありつつ、主題としての例えば池を「回」るという点で、単なる通り抜け式の線形の庭よりも複相的な時間性のメタファに適している。
ここからは、私自身がデセールを食べているときに時間性に着目することで新たな意味を発見した事例を検討してみたい。
今回のデセールは、西宮市「アシェットデセール マルヤマ」の「あまおういちごのミルフィーユ」である。皿の上に散りばめられたいちごは、序盤と終盤で役割が異なっていた。提供された瞬間に視覚的インパクトを与えるという役割もあるが、序盤のいちごは、いちごの味を伝え、どのような風味かを紹介するために機能する。終盤のいちごの機能を理解するためには、本体のミルフィーユの味わいを解釈する必要がある。紙面の都合上、皿の上に拡がるいちごのはたらきに気づいた点だけを再構成する(記述の全体は筆者noteに掲載)。
図1 あまおういちごのミルフィーユ
――自家製だというパイ生地は、精緻に組み上がったジグソーパズルが崩れ、ほどけるような食感。折れたり砕けたりするような堅固なタイプではなく、舌で押し込むだけで小さなかけらへと瓦解し、待ち受けるカスタードクリームにうずまっていく。ミルフィーユの定義を覆すように横に横にと並べられたクリームとパイ、その一組をフォークですくうと、オートマティックにいちごが載り、ひとくち分が完成する。クチポールのなめらかなフォークで口に運び、唇を結び、舌と歯でパイ生地をカスタードクリームに押し当てる。自分が何をしているかの意識が及ぶのはそこまでだ。僕はパイを噛んでいない。何かに導かれるようにパイを縛っていた糸がほどけ、屑くずに拡がり、その拍子に、舌はクリームの滑らかさに包まれている。いちごは何をしている? 果汁がクリームの脂肪分と分離して上っ面を流れるような、あの冷たい感覚がない。だが、いちごはその存在を確かに訴えている。繊維質の食感と、爽やかな酸味を確かに舌先にもたらしてはいるが、しかし綿密にコントロールされた果汁は分離するのではなく「いちごのカスタードクリーム」といった趣きでパイやクリームと融けあっている。――
この調和した「いちごのクリーム化」はあまりにも完璧すぎて、中盤以降に進むにつれて「イチゴを食べている」という意識を忘れそうになるほどだ。その忘却を防ぐのが、皿の上に散りばめられたイチゴの、中盤から終盤にかけての役割である。あまりにも調和が見事であるがゆえに失われそうになる主題への回帰を、まわりのイチゴが担保している。
おそらくこのミルフィーユは、左から順に食べることが想定されている。その証拠に、端にあるクリームが、右端には存在しない。全体としては線形の時間の中で、ひとすくいのミルフィーユは素材の完璧な調和による、凝縮した点時間を形成する。左から順に一層ごとのミルフィーユの繰り返しは再帰的な円環時間をもたらすが、連続が飽きとなり単調な無時間になろうとする瞬間に、皿の上に散りばめられたいちごが「特権的瞬間」として、食べるものの意識を円環時間に連れ戻す。
こんな時代に味を語る
味の表現には、いくつかの語り口modalityがあっていい。仮に、客観よりの「説明のための表現」と主観寄りの「探索と発見のための表現」があるとしよう。どっちが良いとかではない。ワインのラベルにふさわしいのは説明のための表現(岡潔のいう知的な見方、あるいは理性の世界での感覚的な見方)だろう。「いい赤だ」と書かれてもちょっと困る。本研究では、探索と発見のための表現のてがかりとしての、賞味現象の時間論を検討した。
序論では、伝統的に美学・哲学が味や香りを「低級感覚」と位置づけたこと、さらに科学的な手法は眼を分析することを第一目標とすることで確立され、その方法論を他の感覚に敷衍する「二次支配」の惧れがあることを指摘した。その支配はさらに文化的な面にも及ぶかもしれない。
パフェには眼の論理で配置される部分と、舌の論理で構成される部分がある。「映え」を求めるあまりパフェのディスプレイに視覚の論理ばかりが優先されるのは悲しいことである。
しかしこの状況は、舌の論理を記述し分析してこなかった科学と思想の怠慢の写し絵でもある。ことによると、マルヤマのパティシエは眼の論理でいちごを皿の上に散りばめたのかもしれない。だがそのいちごを舌の論理で意味づけし、評していくことによって、舌の論理の位置づけを高めていこうという試みは空虚な妄想ではない。
単にパフェを批評する、実作の後追いを目指すのではない。時間性が食経験に重要だということを示すことで、実作や認知の科学で時間性にアプローチする取り組みが可能になるかもしれない。明治以降の近代文学が評論によって推進力を得たように、また現代芸術の主要な作品がその批評によって価値づけられてきたように、できるなら、食経験の主観的な現象の記述をもって実作に先駆け、味の認知の科学の手法を先導したい。
測ればわかる知のレベルではなく、なんとなく情や意のレベルでつかみかけている主観的な現象に構造を与え、記述する方法を編み出していきたいと思っている。
参考文献
[1] ユハニ・パッラスマー, 建築と触覚: 空間と五感をめぐる哲学. 草思社, 2022.
[2] 諏訪正樹, “からだで学ぶ” ことの意味: 学び・教育における身体性,” Keio SFC journal, vol. 12, no. 2, pp. 9–18, 2012.
[3] 岡 潔, 数学する人生. 新潮社, 2019.
[4] 北方謙三, 千早茜, “第168回直木賞受賞記念対談 北方謙三×千早茜 「無限の闇」の先へ.” 文藝春秋CREA.
[5] H. Fxyma, “The Temporality of the Aesthetic Appreciation of Food and Beverages,” Contemporaly Aesthetics, 2024.
[6] J. J. Gibson, The Ecological Approach to Visual Perception: Classic Edition, 1st ed. Psychology Press, 2014.
[7] Y. Saito, “Aesthetic Values in Everyday Life: Collaborating with the World through Action,” The Journal of Aesthetics and Art Criticism, vol. 81, no. 1, pp. 96–97, 2023.
[8] K. Toko, Y. Tahara, M. Habara, Y. Kobayashi, and H. Ikezaki, “Taste Sensor: Electronic Tongue with Global Selectivity,” in Essentials of Machine Olfaction and Taste, 1st ed., T. Nakamoto, Ed., Wiley, 2016, pp. 87–174.
[9] 古川聖, 藤井晴行, 清水泰博, “池泉回遊式庭園など時間軸の中で体験される空間と音楽の体験の比較について,” 情報処理学会研究報告音楽情報科学(MUS), vol. 2006, no. 19(2006-MUS-064), pp. 7–12, Feb. 2006.