





概要?
以前、「ビフテキととんかつとノイヤールスブレッツェル―世界の祝祭食における記号とメタファ―」というタイトルで発表を行った。その際には、味覚の作品が象徴性を持たないことを理由に美学の議論範疇外とされていることへの反例を示すことを主題とした。
今回は同じく祝祭食を扱うが、ケアの美学の実践的行為としての祝祭食を考えてみたい。近年、日常の美学や倫理的実践と結びついた美学上の議論としてケアの美学が注目される。ここでは伝統的な美学が対象と判断の学であったことが批判され、美学の議論の焦点を対象から制作者、鑑賞者、実践者の内的な営みにシフトすることが主張される。
ケアの美学、日常の美学の主要論者であるYuriko Saitoの議論をもとにして、「物が媒介する思いやりのコミュニケーション」としての祝祭食の性格を検討し、祝祭食とその動機としての願いの間にあるメタファをケア概念が媒介していることを示してみたいが。
日常の美学 Everyday Aesthetics



対象と判断の学 ⇨ 経験の内容
鑑賞者、傍観者 ⇨ 実際に行動する第一人者
ケアの美学
ケアという概念を中心に、私たちの生活における美的側面と倫理的側面の密接な関連性と相互依存性を示す
ケアの倫理学
従来の倫理学
公平性、無関心、一般性を強調する正義中心の倫理学
ケアの倫理学
他者の個別性への注意、他者を理解し認めようとするオープンマインド、適切なケア行為を通じて表現される他者との積極的な関わり
Saitoの主張する「美的側面と倫理的側面の密接な関連性と相互依存性」
ケア倫理が奨励する基本的な態度が、美的経験の根底にもある
美的経験によって育まれた美的感性が、ケア倫理の実現を可能にしている
美と倫理に関する2つの立場
・拷問器具や殺傷能力のある武器のような、道徳的に問題のある機能が、その美的価値を損なうか
・今日の消費財の多くは、発展途上国の悲惨な労働環境で生産され、環境が破壊されている
・完璧に手入れされた緑の芝生は、膨大な量の水と有毒化学物質によって維持されている
ラディカルな自律主義あるいは分離主義
VS
美的判断を下す際に倫理的配慮が決定的に重要とする倫理主義や道徳主義
判断や対象を重視する美学的アプローチが美学の領域を網羅しているわけではない
徳理論 virtue theoryでは、対象物やその特質に加えて、創作や鑑賞という美学に関連する行為に携わる際の、創作者、批評家、鑑賞者といった体験者の内面に焦点を当てることで美学を定義している
第一の関心事項は、鑑賞や創作をするときの体験者と対象との関係である。
それは倫理学の美徳論と類似しているという特徴がある。
両者とも、ある行為の背後にある動機や態度の道徳的性格に関心を抱いている。
結果としての製品や行為が特定の特徴を示すだけでは不十分なのである。
対象の重視は何をもたらすか
ピーター・ゴールディ
対象を優先させることは、「芸術作品の制作と鑑賞の実践全体に関わるさまざまな活動、意図、態度、感情などに、私たちが偶発的かつ道具的にしか関心を持てなくなる危険性がある」と論じている。
「倫理学では、やるべきことを嫌々、恨めしげに、あるいは無頓着な態度で行う人間を低く評価するのは当然である」と指摘する。
彼(ゴールディ)はこの見解を倫理的失敗として提示するが、私(サイトウ)はこの失敗は美学的失敗によって引き起こされると考える。
ケア・エシックス Care Ethics
態度は身体美学の分野に属する (『日常の美学』p.29)
関わる相手に合わせて即興的に態度を変容させる
⇨道徳観(正しさ)以上に美的感性が求められる
思いやりの美学
○ 思いやりの行動は思いやりを表す表現が必需であり、それは美学範疇の課題である
○ 受け止める側の美的感覚が鈍くては成り立たない(p.30)
ケアの美学、日常の美学と食
対象と判断の学 ⇨ 経験の内容
鑑賞者、傍観者 ⇨ 実際に行動する第一人者
味覚・嗅覚が美学の定義から外されてきた原因を振り返る
「鑑賞に耐えうるほど刺激が長続きしない」(ある部分に注目して説明できるほど長続きしない)
「複雑さや構造を持たない」(例:音楽の構成、小説の筋、絵画の構図など)
「抽象性をもたない」(例:自由、時間、勝利などを表現できない)
「外部の対象を表象しない」(例:肖像画、風景画などは外部の対象を表象)
まさに「対象」「判断」の重視が招いた弊害
対象の重視
⇨ 「正しい」知覚があるという幻想
官能評価ですら再現性、客観性を求められる
「赤の知覚は,実は……である」といわれる場合の「本当は」とか,「実は」は,「直接経験に対応する物理・科学的出来事を理論と用具に仲だちされた経験によって記述すれば」という以上の意味をもたない.
(市川浩, 1990『〈中間者〉の哲学』 p.106).
我々の認識あるいは表象はかかわりとして生起するものであって、かかわりを離れた、「客観的」な構造というものは存在し得ない。
認識の主体としての経験をある一つの相に絶対的に還元しようとする姿勢は、かりそめの明証性と引き換えに、我々の世界理解の様式を貧困化させるだけである。
(福島, 2018)
美学と(認知)科学は「対象の重視」という通底する問題をはらんでいる