日本語の味わい表現の収集としては、瀬戸らの一連の研究を嚆矢とみることができよう。
瀬戸らの研究では、味を表現することば(「味ことば」)を雑誌書籍から収集し、その階層的 分類を行っている(瀬戸 et al.、2005、p. 16)。瀬戸らの分類では、「味ことば」を構成す るのは大きく「直接表現」と「比喩表現」とされている。
直接表現は味そのものを表現する語のたぐいで、外延的には甘味などの基本味、コクなどの複合的な味が含まれる。
言語化が難しい味の感覚を、それでもなお言葉によって語っていこうとするとき、最も有 力な方略の一つと目されるのは、他の感覚の情報を類推的に援用し、メタファとして表現す る方略である。
瀬戸らの研究では、味わい表現の事例収集を通じ、味わいを直接表現するこ とば(甘い、苦いなど)は限定的であり、不足する表現の大部分はメタファにより補われて いることが指摘されている。
具体的には、味や香りの表現をする際に「とがった味(触覚→ 味覚)」、「厚みのある旨味(視覚→味覚)」というように、他のモダリティの情報を用いて共 感覚的に味わいを表現するという方略である。
瀬戸らの分類は、味わい表現の階層的分類を、比喩と感覚領域の観点から網羅的に示した という点で注目できる。瀬戸らは表現としての言葉を分類することを目標とし、一定の成功 をおさめてはいるが、注意しなければならないのは、それ自体が味わいの表象過程を反映するものではないということだろう。味覚の認知過程、記号過程という点を考える上では以下 に示す二点への考慮が必要と思われる。
味わい表現における語の意味の対象依存性
まず一点目として、瀬戸らは雑誌、書籍等の言語資料から表現の事例を収集している。
これは一種のコーパスとみなすことができ、コーパスである以上、一般には網羅的であることや、代表性を担保する質量が望まれる。
しかし味覚表現に関しては、例えば日本酒とワインなど、異なる対象への表現を字義的に同一平面上で扱って良いのかという問題が生じる。これはとりわけ味わいの表現においては、語の意味が対象に強く依存するためである。
音象徴語などには顕著であるが、語の意味が内包的に定義されず、周辺語との共起関係によって規定されるという現象は、対象を限定しないコーパスの分析から明らかにすることは困難であると思われる。
あるいは日本酒の「ふくよか」という語が「米の旨みを思わせる香りが柔らかく広がる様子」を示すように、ある語が特定のコミュニティにおいて専門用語的に対象依存性を持つことがある。
こうした語の多義性をどのように扱うかは言語を扱う研究では避けられず、研究の目的、指向性の問題であるが、とりわけ味覚の表現において意味の対象依存性は十分に考慮される必要がある。
直接表現と類推表現は個人内において連続的である
二点目として、瀬戸らの表現分類は字義的な表現上の分類であり、実際の表現過程を反映した分類ではない点を挙げることができる。
字義的な分類を実際の日本酒の利き酒にあてはめるならば、ある香りを「カプロン酸エチルの香り」と指摘すれば直接表現だが、同じ香りを「リンゴの香り」と表現するとメタファだということになる。
プロのテイスターの表現過程、すなわち「酢酸イソアミルではなくカプロン酸エチル、すなわちリンゴの香り」という直接的な表現過程と、アマチュアの「なんとなくフルーツで言うとリンゴの香り」というメタファ的な表現過程は、字義的には同じでも、内的な表現過程としては異なるものとみなすべきである。
この例を踏まえると、ある表現がメタファ的表現過程を経たものかどうかは表現者の熟達の度合いによって異なっていることが分かる。従って直接表現とメタファ表現(類推表現)は、瀬戸らの分類にみられるように字義的に明確に区分されるものではなく、表現者の内部での記号と感覚の接続の度合い(すなわち記号接地(Harnad、1990)の度合い、あるい entrenchment (Taylor、2012) の度合いによって勾配があるとみなすべきであろう。
表象の生成装置としてのメタファ
類推表現の分析を言葉の面からすすめるほどに、メタファは優れた形容方略のように思われてくる。
あらわれた表現を分類すれば、結果として多くの味がメタファによって形容を受けているがために、素朴な印象として、「味」がまずあって、それをメタファが形容するという構図を描いてしまう。この構図をささえているのは、モノの認識が名詞的におこなわれ、そこに形容詞で「彩(いろ)をつける」という考えであろう。
しかしこの素朴な直観は、モノとしての味の優位性、あるいは先験性を暗黙の裡にひきうけているがゆえのものであることに注意したい。メタファをささえるのはターゲットドメインとソースドメインのあいだの類似性である。だがこの関係性は、表現すべきターゲットドメインが表現に先立って既に認識されているという構造を許している。
注意したいのは、認識においては、ものやことがはっきりと現れていて、それを適切な表現で描写するのではないということである。立ち現れは「渋って」あらわれるのであり、的を射た表現を得るとその相貌をくっきりとあざやかにする(大森、1976)のである。
この、渋ってもやもやとあらわれる立ち現れのありかたは、味覚においては他の知覚領域以上に実感をともなうものであろう。
筆者は、モノとして、対象としての味に先立って、コトとしての味が立ち現われているという見かたに立つ。
この、コト的認識はモノ的認識に先だつという現象論的な考え方は、現象論の立場から言語を射程に入れた認識論を展開する論者の中では有力なものである(cf.(大森、1976)(市川、1990)(吉本、1990; 廣松、1997)
コトとしての味わいをモノとしての味のまえにおくとき、メタファを単なる修飾語の地位におくことはおそらく不適切である。味覚表象構成論においてはむしろ、もやもやと渋って立ち現れる味に対して、色や形、手ざわりなどをソースドメインに据え、メタファ的表現を与えることで表象そのものを生成、構成するという投射的なスキーマとしてのはたらきをメタファに想定したい。